2009年8月 5日

熱い熱い「おとぎばなし」 - 藤田和日郎『月光条例』(小学館) -

絶賛サボり中の書評。今回はマンガです。

かわいそうな『マッチ売りの少女』が嫌いで、僕はこいつら生み出した。
少女を助けて戦うやつら。
でも、少女を助けるヒーローなんざ、要らないのかもしれない。
だって、少女が戦わなきゃ。
ただ雪の中、手に息を吹きかけて泣いてちゃ、誰もふりむいちゃきれないもの。
戦わなきゃ。しんどくても辛くても、自分でやんなきゃ。
ああ、ああ、そういうコトか、だから自分は『マッチ売りの少女』が嫌いだったんだ。
『背中をまるめてマッチなんぞすってるんじゃねえ』うしおととらは、つまり・・・そういうヤツらだったんだ。

『うしおととら』の最終巻に書かれていた文言である。そんな著者がおとぎ話を題材としたマンガを描くのだから、世の中は面白い。

藤田和日郎は大好きな漫画家の一人で、単行本化されたものは全て目を通している。上述の『うしおととら』や『からくりサーカス』は週刊少年サンデー連載だったが、『からくりサーカス』終了後はスピリッツで『邪眼は月輪に飛ぶ』、モーニングで『黒博物館スプリンガルド』と、青年誌での連載。『月輪』『スプリンガルド』共に藤田作品の特色である「登場人物の熱さ」はそのままに、青年誌の読者層を意識した世界観が構築できていたので、主戦場が青年誌に移ったものとばかり思っていたが、新連載の舞台は週刊少年サンデー。サンデーに限らず週刊少年誌を立ち読みすらしなくなって久しいので触れる機会がなかったのだが、平野耕太『以下略』(ちなみにこのマンガは非常に人を選びますが、これを読んでゲラゲラ笑える人は確実に私と同類なので、いいお友達になれると思いますw)で「面白い」と書いてあったことで興味を持ち、軽い気持ちで1巻を買ってみたのだが・・・次の日には既刊全部買い揃え、先日発売された5巻は当日に購入した。あらすじはまとめるとこんな感じ。

何十年かに一度、真っ青なお月さまの光が地上に届くと、「おとぎばなし」の世界がおかしくなる。具体的には、青い月の光を浴びたおとぎばなしの登場人物がおかしくなり、「読み手(ニンゲン)の世界」で暴れまわる。「おとぎばなし」の長老達は話し合って『月光条例』という法律を作った。法律と言っても条文は一つだけ。「青き月光でねじれた「おとぎばなし」は猛き月光で正さなければならない」。そのための「執行者」として選ばれた「読み手の世界」の人間・岩崎月光は、幼馴染のエンゲキブ(あだ名で本名は不明)、「おとぎばなし」の世界の使者・鉢かづき姫と共に戦うことになったのだが・・・。

「おとぎばなし」がベースになっているので、基本的にはおかしくなった登場人物がどう描かれるかで面白くもなるしつまらなかくもなるのだが、この「崩し」が秀逸かつ非常にスケールが大きい。巨大化・凶暴化するのはデフォルトなのだが、例えば「三匹のこぶた」でおかしくなった狼の息は、国会議事堂を吹き飛ばした。「一寸法師」では鬼の金棒が猛威を振るうのだが、その威力は8億トンの土砂を巻き上げ、地球を氷河期一歩手前にまで追い込む。「シンデレラ」でおかしくなったのは主人公・シンデレラで、何故かスピード狂になって走り屋達のバイクや車と勝負しては壊して回る。「おむすびころりん」でおかしくなるのは「転がっていくおにぎり」で、人間を襲うところなどはパニックムービーのノリそのもの。荒唐無稽な設定と言えばそれまでなのだが、それで興ざめしたりしらけたりすることが全くなく、むしろ物語にぐいぐいと引き込まれる。「熱い物語」を書かせたら右に出るものがいない藤田和日郎の真骨頂と言えるだろう。

そこで冒頭の引用文である。「マッチ売りの少女」が一体どのような物語に生まれ変わるだろうか。月光が「少女」に「背中をまるめてマッチなんぞすってるんじゃねえ」とハッパをかけるのか、はたまたおかしくなった「少女」が暴れまわった末、何かをつかむのか。今から楽しみでしょうがない。

【蛇足】
藤田作品の女性キャラは魅力的な方が多いのですが、今作品のエンゲキブと工藤、ツボすぎて困りますw

2009年3月30日

バレーボール版『GIANT KILLING』? - 日本橋ヨヲコ『少女ファイト』(講談社) -

ナビスコの2戦はどちらも生観戦が叶わなかったのでレビューは見送り。今回は需要があるかさっぱり分からないが書評のお時間である。

先日、FC東京バレーボールチームを応援しているこちらの方からお誘い頂き、FC東京vsつくばユナイテッドを観戦した。結果はご存知の通りセットカウント3-1でホーム・つくばを下し、V・チャレンジリーグ優勝&入替戦へと駒を進めることとなった。どんなスポーツでも「優勝の瞬間」というのは美しいものなのだな、ということを再認識させられた。ぜひとも3度目の正直で大分三好を下し、悲願のプレミア昇格を果たして頂きたい。

というわけで、今回の書評で取り上げるのはバレー漫画である。いつかこの作品については触れなければと思っていたところだったので、個人的には完璧なタイミングである。
2008年のスポーツ漫画界を独断と偏見により一言でまとめると、「2007年末に無類のマンガ好きとマンガ好き兼サッカー好きの間でのみ盛り上がっていた『GIANT KILLING』(以下『ジャイキリ』)が、一般層に浸透して大ブレイクを果たした年」となるのだが、今回取り上げる『少女ファイト』(講談社『イブニング』連載)には『ジャイキリ』と同等のポテンシャルが秘められていると断言する。
『ジャイキリ』が人気を博した理由のひとつとして、「選手vs選手の勝敗=チームの勝敗」という従来のサッカーマンガとは異なり、監督という立場を借りてフットボールを大局的見地(戦術、試合の「流れ」、組織の中で個々の選手に課される役割等)から描いている点が挙げられるが、『少女ファイト』にもバレーボールのセオリーやポジション別の役割等が劇中で説明され、手軽に「バレーボールはこういうスポーツですよ」というお勉強になる。
そして『ジャイキリ』にはない楽しみ方としては挙げられるのは「主人公・大石練(おおいし ねり)を中心とする、個性的すぎる登場人物(主に高校生)によるビルドゥングスロマン(成長物語)」という点。例えば大石練は天才バレーボールプレイヤーなのだが、バレーボールの名門中学校では極力目立つことを避けて3年間補欠となり、友達すら作ろうとしなかった。小学生時代は「狂犬」とあだ名されていた練がどうしてそんな風になったのか、当然理由はあるのだが続きはマンガをごらんいただきたい。

『ジャイキリ』を楽しめるという人ならば、絶対に面白く読める作品だと言い切ってしまおう。

【蛇足】
『少女ファイト』から日本橋ヨヲコという漫画家を知ったという方には、前作である『G戦場ヘブンズドア』も是非読んでいただきたい。『少女ファイト』と同じ世界観を共有しているという点でも楽しめるのだが、筆者の出世作でもあるし私が大好きな作品のひとつだからだ。要はオタクの押し売りであるw

  

2009年2月 7日

カルチョの国を知るための入門書 - 小川光生『サッカーとイタリア人』(光文社新書) -

「イタリアサッカーにおける因縁マッチの説明と、それに関わるイタリア人の言葉を収録した本」。本書を強引にまとめればこんな感じになる。「三度のメシよりカルチョ(イタリアのサッカー)好き」といった方々が本書を読んでも歯ごたえがないのかもしれない。世界を震撼させた「八百長騒動」についても、「あの出来事があって・・・だった、でも・・・」といった程度にしか言及がないので、その辺りの話が読みたい人にとっては物足りないだろう。だが、ジェノアとサンプドリアのどちらが「先輩」なのか、すぐに出てこなかった程度の知識しかない私のようなサッカー好きには適した1冊だ。この本のおかげで「メッシーナ」と「レッジーナ」の地理的な場所を間違えることはなくなりそうだ。

個人的に好きだったエピソードは、エラス・ヴェローナとキエーヴォ・ヴェローナの「ロバ」にまつわる因縁について。ティム・パークスのおかげでエラスについてはある程度知識があったが、キエーヴォについてはほとんど知識がなかったので、面白く読むことができた。

2009年1月25日

温故知新 - 一志治夫『狂気の左サイドバック』(小学館) -

昨年、「1ヶ月に一本」というノルマを課して始めた書評は中途半端な形で終わってしまった。ノルマを設けるより、書きたい時に書きたいことを勢いのまま書く方がいい文章を書けるスタイルの方が続くと思うので、今年は「月ごとのノルマを設けず、スポーツ関連の書籍を中心に12本以上の書評を書くこと」を目指したい。

というわけで今年一本目の書評は、神楽坂の中古書店に立ち寄った際目に付いた、一志治夫『狂気の左サイドバック』。都並敏史の視点から「ドーハの悲劇」を描いた作品で、Jリーグ誕生が1993年、初版が1994年9月ということを考えれば、日本におけるサッカーノンフィクションの「古典」と言っても差し支えないだろう。14、5年前の作品ということで、サッカーのポジションについての記述等に時代を感じる表記もあるが(「守備的ハーフ」や、フォーメーションの記述がない等)、プレイヤーの特徴やサイドバックに必要な能力等、言語化しづらいところをきちんと文章として表現できている上、「悲劇」に至るまでオフト率いる日本代表に何があったのかが丁寧に描かれていて、古さは全く感じさせない。そして目玉は「全日本」「日本代表」の為に左足首にボルトを入れ、激痛を伴うことを承知の上で麻酔を打って試合に出ようとした都並敏史の姿勢。まさに「狂気」と呼ぶに相応しいもので、今のご時世こんなメンタリティーの選手が自分のクラブにいたら、「頼むからクラブでの試合を優先してくれ!」と叫ぶこと必至だろう。

ドーハをリアルタイムで体験していない人は必読の一冊。未読だという方は、中古書店に出向いて探していただきたい(おそらく新刊として売っている書店はないと思われるので)。

2008年10月17日

永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』(ソフトバンククリエイティブ)

Jリーグと比較した際に、プロ野球が上回っているところは何だろうか。観客動員数や興行の規模ではたしかにプロ野球が優勢だ。しかし、国際性や地域貢献という点では、すでにサッカーの方が高いレベルを示している。そのJリーグが、プロ野球に勝てない点といえば、歴史である。プロ野球には、複数世代にわたるファンが存在する。これは、金銭で買収することができないものだ。どうして、この最大の特色を、プロ野球は生かしきれないでいるのか。
(p.266 「終章 球史への敬意」)

月に一度書くと決めた書評だが、9月はさぼってしまったので10月は2冊分掲載予定。10月第一弾に取り上げるのは、「ホークス」を冠した職業野球団70年の歴史をまとめた本書である。中身についてはホークスの歴史を「戦前」「戦後」「福岡移転」「球界再編」の4つに分け、それぞれの時代においてホークスという球団と、そして職業野球そのものがどういった歩みを刻んできたのか、について書かれている。日本野球における「台湾人プレーヤー」の歴史は戦前から始まっていたとか、他チームの主力を引き抜く「巨人」の戦力補強の歴史は戦後直後から始まっていたとか、ホークス中心の野球史を綴ってはいるのだが、ホークスファン以外が読んでも面白いと思える記述は随所に見られるので、野球好きにもお勧めの一冊だ。

さて、この本を読んでいた頃にFC東京が創設10周年を迎えた。「歴史が浅い」と言われて久しいJリーグであるが、「プロリーグとしての」と前置きは必須である。前身である「東京ガスフットボール」は公式サイトによると1935年に創部した、との記述があるので、その時代をカウントすればFC東京は実に70年以上の歴史を誇るクラブということになる。ただ、2004年に「クラブ創立70周年記念○○」といったチケット販促イベントやグッズ販売が行われた形跡はないので、正史は1999年10月1日より始まった、ということなのだろう。
東京以外のクラブがリーグ以前の歴史をどう捉えているか気になって軽く調べてみたところ、クラブによってバラバラだった。例えばチーム名に「1969」を冠したことのあるヴェルディは、前身クラブの歴史の延長線上に現クラブが存在することを内外にアピールしている、最も顕著なクラブと言えるだろう。前身が川崎に本拠地を置く東芝サッカー部だった札幌のサイトを覗いてみると、東芝時代は参考記録程度といったニュアンスを感じる(2005年に10周年イベントとか開催したのだろうか)。そこへ行くとお隣の川崎は、ウェブサイトを見る限り1997年から歴史が始まったという解釈になる。横浜Fマリノスのクラブヒストリーには「F」の歴史もきちんと掲載されていたのは何よりだと感じる。

Jリーグ以前の歴史もカウントするよう統一するべきだ、といったことを主張するつもりは全くない。クラブで扱いが異なっていても全く構わない。ただ日本のフットボールの歴史が「1993年5月15日」に突然始まったわけではない、という認識はJリーグを愛する全ての人間が共有してもいいのではないかと考えるし、サポーターがクラブの枠を超えて共有しておかなければならない「過去」はあると思う。例えば数年前、新潟サポーターがマリノス戦で「ぶっちゃけ、"F"いらなくね?」という横断幕を掲げたことがあったが、とある東京サポの先輩は今でもあのダンマクに対し「当時新潟の指揮を取っていたのはあの反町康治だったというのに、「Fいらない」とは何事だ」と憤りを隠さない。歴史に触れる機会が彼(もしくは彼女)らになかったのだろう。

日本の職業野球は80年以上の歴史を誇るのに対し、日本の職業サッカーの歴史は20年にも満たない。だが、職業サッカーに至るまでの歴史は確実に存在したし、そういった「Jリーグ以前」について通り一遍でもいいから触れておけば、現在のJリーグをより一層深く楽しむことができるはずだ。例えばジェフは、前身の古河電工サッカー部の歴史を含めれば「クラブ創設以来一度も2部リーグを経験したことのないクラブ」である、といった具合に。

2008年8月31日

西尾維新を何冊か (『クビキリサイクル』『クビシメロマンチスト』『クビツリハイスクール』『きみとぼくの壊れた世界』)

柏戦は後半からのテレビ観戦だったので感想記はお休み。ここを落せば「ハラトーキョーの亡霊達」がより一層「走れ動け放り込め」「考えなしにシュート打て」「とにかく勝て勝て勝て勝てホームだぞ」「不利な笛は即クソレフェリー」と騒がしくなる可能性があった。油断は禁物だが、降格争いに怯えて戦うよりは「目指せ賞金!」みたいな感じで上を見て残り試合に臨んだほうが、何かと健康的な気がする。先頭集団に加われるか否かはアウェーでのクラシコが分水嶺となるだろう。

今月の書評は西尾維新を取り上げたい。先月・今月と、彼の作品をいくつか読んだ。ライトノベルを語る上では必ず名前の挙がる作家で、これまで未読だったこともあり、『戯言』シリーズの文庫化を機にチャレンジしてみたのはいいのだが...結論から言ってしまえば相性は最悪だった。彼の作品(ここでは『戯言』シリーズに限定)を楽しめるか否かは、主人公を含む超人達による掛け合い・言葉遊びを面白がれる否かにかかっていると言っても過言ではない。ネットの評判がいいからアマゾンで購入する、という方法は推奨しない。必ず書店に赴き、シリーズ一作目である『クビキリサイクル』を5、60ページばかり立ち読みすることを強く薦める。あなたが想像する「面白さ」と大きい異なる可能性が高いからだ。

ここで誤解のないよう申し上げるが、私の嗜好とは合わなかっただけで、西尾維新が素晴らしい作家であることは間違いない。というのも、文庫化が続く限り『戯言』シリーズは買い続ける気満々なのだ。正直、何を期待して読み続けているのか分からなくなっている状態なのだが、嗜好が合わないという理由だけでスルーするのは勿体ない、そんな気がしているのは確かだ。

差し当たり、「戯言」という言葉にどんな意味が込められているのか、ご存じの方はご教示頂ければ幸いだ。

2008年7月30日

中村計『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』(新潮社)

俺なら分かってやれる。 10年後、彼らに会いに行こう。
1992年の夏、その活躍で甲子園を大いに沸かせるであろうと目されていた石川県代表・星稜高校の「ゴジラ」は、その初戦に5打席連続で敬遠され一度もバットを振ることなく甲子園を去ったことで日本中を大いに沸かせることとなった。

上述の台詞は、そんな星稜に勝った高知県代表・明徳義塾高校の生徒がコメントしたとされる「甲子園なんて、来なければよかった」という台詞に対する筆者の心境である。筆者自身も敬遠事件の1年前は高校球児で、自身のミスによって最後の夏の大会に破れ、「野球なんかしなければよかった」という思いに駆られたのだが、その心境が「甲子園なんて・・・」に重なったのだという。
その思いに偽りはなく、5打席連続敬遠事件に関わる多くの関係者へ取材を行っている。松井秀喜を筆頭に3番を打っていたエース・山口、5番だった岩月、後に続く奥成、福角、捕手・北村、そして監督である山下智茂。対する明徳側への取材も、監督・馬淵史郎を筆頭に主将・筒井、「8番」をつけた投手・河野、捕手・青木、主砲・岡村、三塁手・久岡、ライト・広畑、レフト・加用、等。彼らの多くが現在は一般人として暮らしているのだから、筆者の取材力には恐れ入る。
当事者達の回顧を読んでいると、いくつかの点に気づかされる。初戦が星稜と決まってから、馬淵はメディアに対してそれとなく敬遠作戦を示唆していたこと。当時の明徳ナインと馬淵とは絶対的な信頼関係で結ばれていて、メディアはさかんに「勝負したかったでしょ」と尋ねていたが、彼らはそんなこと微塵も思っていなかったこと。星稜戦後に迎えた広島工業戦、悪役としてグラウンドに立つことを覚悟し意気込んでいた彼らを、スタジアムは拍手で迎えたこと。広島工業の応援席では父母の会によって「明徳義塾はルール違反をしたわけではなく、選手に何の罪もありません」というビラが配られていたこと等など。そして、筆者が本書を書くきっかけとなった、「甲子園なんて・・・」という台詞についての取材も最終章で行われている。この最終章の存在が、事実を羅列するだけのスポーツノンフィクションと一線を画している点と言えるだろう。

当時の私は12歳だったので詳しいことは覚えていないが、「善:星稜 悪:明徳」という風潮はかなり強かったと記憶している。この敬遠作戦が社会問題化した原因を、筆者は「野球観」とは異なる「高校野球観」に求めている。私はこの「高校野球観」を、私は「正々堂々」「溌剌」「爽やか」「フェア」「スポーツマンシップ」等、高校野球が持つありとあらゆる「ステレオタイプ」を凝縮した価値観だと捉えているが、当時の明徳が取った行動は上述の通りルール違反したわけではないにもかかわらず非難されたのは、イメージと逸脱する行動を取ったが故の反発だったのだろう(最近では斉藤佑樹や田中将大が、この「高校野球観」を過剰に押し付けられた気がしてならない)。

明後日から8月。果たして今年の甲子園にはどんな「ヒーロー」が出現するのだろうか。願わくばそのヒーローが作られたものではなく、掛け値なしの本物であって欲しいと思う。5連続敬遠され伝説となった「怪物」のように。

2008年6月30日

11人いればどうなった? - J1第14節 vs千葉(飛田給) -

勝てたんじゃないかなぁ・・・というのが試合後に抱いた私の感想だ。根拠は一人少ない状況であるにもかかわらず引きこもるわけでもなくボールを回し、ゲームを支配していた前半の内容だ。セットプレーでの先制点は、不利な状況にも関わらず個人個人が勇気を持ってチャレンジし続けたからこそ生まれたゴールだと言える。たった数ヶ月でたくましくなったものだと

ただ、選手のコメントや東京サポーターのブログ記事からは、10人で奮闘して勝ち点1を掴み取った試合であるにも関わらず「勝ちきれなかった試合だった」ことへの口惜しさが感じ取れた。これがジェフの立場ならばある意味分かりやすいのだ。「3」という結果が何よりも求められる局面において、相手が1人減ったにもかかわらず先制点を食らい、2人減った状況でようやく同点にして試合終了なのだから、私だったら「もったいない」以外に書き記すことはしないと思う。

こういった言説が多い理由を「首位争いを演じているから」と説明することも可能だろうが、ことサポーターに関しては「勝利したことへの喜びを素直に表現できる環境が今の東京にあるから」だと捉えたい。2005年~2007年の3年間は、チームが勝利してもそれを素直に喜べないサポーター・ファンが一定数存在したという不幸な3年間だったと言える(ちなみに層の構成は年によって異なるが、2005年と2007年は層が若干被るのではないかと分析する)。そういったわだかまりが今年に限っては存在しない。勝ったことを大いに喜び、敗れた試合に対しては大いに悔しがる。当たり前と言われればそれまでだが、クラブが上手く行かないとこういった「当たり前のこと」さえもおぼつかなくなる。それを嫌というほど思い知った。試合後の感想戦やブログの更新が最近楽しくて仕方がない、と感じているのは私だけはないはずだ。

第15節の相手は浦和。後に続く鹿島戦・ガンバ戦と、川向こうの企画をパクるが「修羅場3」と銘打つに相応しいが、まずは浦和を打ち倒すことに全力を注ぎたい。J.B.Antenna等のブログを拝見する限り、「負けろ」とは露とも思わないが現行のゲルト体制で勝ち点を積んでも素直に喜べない浦和サポーターは少なからず存在するように見受けられる。そういう「不幸」を少しでも早く終わらせるためにも負けてはならない一戦である。当日はまたしても雨の予報だが、何とか晴れて欲しいものだ。

【書評2008:杉山茂樹『4-2-3-1』】
今月のノルマは2冊なので、このスペースにてやっつけることに。
タイトルからも想像できる通り、徹頭徹尾戦術に特化したサッカー本である。こういう本がそれなりに評判となること自体、日本にサッカーが浸透してきている証である、と言っても過言ではないだろう。「中村俊輔みたいな選手が沢山いれば無敵のチームが作れる」と純粋に信じている方々や、「地上波のテレビ実況を聞いているだけでは各選手がどういった役割を負っているのか全く理解できない」という方にはうってつけの一冊と言える。自分の戦術知識をブラッシュアップするのにも最適な一冊だ。ただ、「サッカーは戦術だけでするものではない」ので、これ一冊を以ってサッカーの全てが分かる、というわけではない。あくまでサッカーという競技の一側面を知るため、というスタンスで読み進めることをお勧めする。

2008年6月24日

木村元彦『オシムの言葉』(集英社文庫)

先月はノルマである書評をサボったので今月2冊分書く予定。有言実行を果たすべく頑張っていきたい。まず1冊目は先月文庫化し、J.B.Antennaやさっかりんからお越しの方なら読んでいる方も多いであろう『オシムの言葉』を取り上げたい。と言っても、内容については多くの人によって語りつくされている感があるので、木村元彦という作家について書いてみたい。

日本のスポーツノンフィクションにおける「型」は、山際淳司と沢木幸太郎の2人によって作られた。『江夏の21球』に代表される、競技のワンシーンを切り抜き、そのワンシーンに関わる全ての者の証言によって「どのようにしてあのワンシーンが作られたのか」を再構成する山際スタイル。一方の沢木スタイルは、本来であれば取り上げられることのなかった「敗者」、そして「個人的に思い入れのある選手」を圧倒的な筆力で以って書き上げるというものだ。では、木村元彦のスタイルとは何か。「批判精神を持ったジャーナリスト」が書く「ノンフィクション作品」だ。

彼が凡百のノンフィクションライター・ジャーナリストと一線を画すのは、徹底した現場主義と批判精神だ。『誇り』『悪者見参』『オシムの言葉』、どの作品を読んでも必ず現場でのレポートが掲載される。それも危険地帯であると言われるような場所へも足を運んでいる。現場主義も行き過ぎると害悪でしかないが、現場でしか分からないことが必ず存在する、というのは一介のサッカー好きであれば頷ける感覚だろう。
「批判精神」については枚挙に暇がない。国内のノンフィクション賞を総なめにした高木徹『戦争広告代理店』に対し、『終わらぬ民族浄化 セルビア・モンテネグロ』のあとがきにおいて、
「ルーダーフィン社のせいで苦しむことになった民衆の座視もそれに対する批判精神もない」
「取材していたなら、ボスニア紛争時になぜルーダーフィン社のことを報道しなかったのか」
「全部終わってから種明かしのように見せられると、紛争を「ネタ」としか考えていないのかと考えてしまう」
といった感じに批判をしている。サッカー批評においてオシムに対して「どこでどのクラブで何をしたっていうの?」という、「プロの辛口評論家」というポジションに徹したと考えなければ理解不能の発言をしたセルジオ越後に対し、次号のサッカー批評上でセルジオを名指しで批判した。そればかりか、「アンタッチャブル」こと「偉大なる」日本サッカー協会会長を名指しで公然と批判している数少ないサッカー関係者でもある。ジャーナリズムには批判精神が必要、とはよく聞く話だが、ここまで徹底していて、かつ「批判的でありさえすればいい」という偏狭な考え方にも組しないバランス感覚を持つジャーナリストはそうそういるものではない。

「ユーゴスラビア3部作」を通じて木村が一番伝えたかったのは、「戦争に翻弄されるスポーツの姿」であり、「政治やイデオロギーによって翻弄される人々の姿」だ。その姿勢は『蹴る群れ』第1章において分かりやすい形となるが、翻弄されたが故に激動の人生を歩むことになったことを美談にすることはない。寧ろ、そうやって生きていかざるを得なかった人々を生み出したものに対する、憤りみたいなものを感じる。「そういうものから学べたとするなら、戦争が必要なものになってしまう・・・・・・」(p.145)という台詞はオシムの言葉であるが、木村の本心でもあるのだろう。

2008年4月25日

『GIANT KILLING』(作:綱本将也 画:ツジモト)

昨日最新刊が発売になったので、毎月のノルマとして課している書評、今月はこのマンガを取り上げたい。ただ感想を書くのはつまらないので、このマンガがサッカーマンガの歴史の中でどのような位置付けなのか、偏見を大いに膨らませて書いてみたい。

まずはサッカーマンガをいちジャンルとして引き上げた高橋陽一『キャプテン翼』を取り上げないわけにはいかないだろう。日本に優秀なFWが育たない要因であると実しやかに語られたというだけでも、このマンガが当時のサッカー少年達の心を鷲づかみにしたか、という証明足りえるだろう。
『キャプテン翼』の時代には夢であったプロリーグ創設、ワールドカップの出場、日本人選手の海外移籍。1993年から年を重ねるごとに「夢」が夢でなくなっていった日本サッカー界をトレースする形で、サッカーマンガの世界も大きく変わっていく。週刊マンガ誌の宿命とも言える「能力のハイパーインフレ化」「必殺技至上主義」をふんだんに取り入れた、荒唐無稽な「キャプ翼的世界観」と現実のサッカー観をいかにして結合させるかがテーマとなった。その融合が最も優れた作品として、私は村枝賢一『俺たちのフィールド』を挙げる。内容についてはあえて触れないが、主人公のライバルはアルゼンチン人で、クライマックスとなる日本代表vsアルゼンチン代表は98年ワールドカップ期間中に連載されていたのだ。現実とフィクションが交錯する瞬間というのを、私はこのマンガで初めて体験した。
ゼロ年代に入り、サッカーそのものがメジャースポーツとして定着していくにつれ、サッカーマンガの評価基準に「リアルとの整合性」を求める声が高まってくる。「開祖」高橋陽一が思い出したかのようにキャプテン翼の続きをヤングジャンプに連載しているが、もはや『テニスの王子様』と同列のマンガとしか見なされなくなっている。そんなゼロ年代前半期(2001~2005年)で最も高い評価を集めたのは、能田達規『ORENGE』だろう。弱小クラブ(しかもオーナーは女子高生)に天才ストライカーが加入して一部リーグを目指す、という大まかなストーリーを聞けばフィクションそのものだが、そこにオーナーやサポーター、スポンサー等クラブに関わる人間全てをストーリーの中に組み込み、J1昇格に向けて戦い続けるを描写したことで、マンガとクラブを愛するサポーター達から絶大な支持を得た。そしてもう一つ、『GIANT KILLING』でも原作を手がける綱本将也が吉原基貴と組んで手がけた『U-31』。前述の『ORANGE』が「キャプ翼的世界観」と「現実」とを融合させた傑作だとするなら、こちらはリアルさを極限まで追求した作品だ。主人公を「かつてのスター選手」と設定したことで、年を重ねてゆくサッカー選手の苦悩をこれでもかと描き、「ドーピング」についても真っ向から書き上げたこの作品は、サッカーマンガの世界を広げた作品だと思う。

さて、長々とサッカーマンガそのものについて書いてきたが、本題の『GIANT KILLING』に入る。主人公・達海猛が「監督」である。よって、試合に関する描写がこれまでの「選手vs選手」という視点とは一線を画し、読者は監督の視点で試合展開を追うこととなる。対戦相手は誰がキーマンなのか、自チームは誰がキーマンなのか、どうやって点を取るのか、取らせないためにはどうするのか、といった描写が多く描かれることになる。しばらく前に「サッカーを見るのは難しい」という記事が話題となったが、このマンガは「サッカーってどこを見ていればいいのか難しいよね」と感じている人間にとって、何が試合を決めるのか知ることの出来る格好のテキストなのだ。

タイトルにもなっている「GIANT KILLING」、それをなしえた時、見ている者はある種のカタルシスを感じる(除く「GIANT」と見なされるクラブのサポーター)。それが「偶然」や「運」によって引き起こされるのではなく、自らの手で起こすものであると作者は言いたいではないかと考える。愛するJクラブを持つ方全てに読んで頂きたい作品である。劇中に登場するスタジアムの形を見てニヤリとできること請け合いである。

2008年3月 5日

永山薫『エロマンガ・スタティーズ 「快楽装置」としての漫画入門』

去年の更新具合を見ていて、サッカー以外のことについて書いた文章が少なかったことを反省し、今年の方針として「月1~2回のペースで読んだ本のレビューを書く」と自分の中で決めたのだが、見事に守られていない。引越が重なって読書自体が疎遠になっていたことも影響しているが、最近少しずつ読み始めるようになったので、初志貫徹するため最近読んだ本を取り上げて色々と思うところを書いていこうと思う。それにしても、オフ会で一部の方には面も割れ、そのレポートを書いて普段より多くの方がこのサイトをご覧になっているこの時期によくもまぁこんなタイトルの本を選ぶものだと我ながら呆れるばかりだが、面白かったのだから仕方がない。

タイトルで引かれた方もいるかと思うが、内容は至って真面目である。「まえがき」にて作者は次のようなことを書いている。
一般の漫画についてはその歴史やスタイル等が漫画研究者や評論家に語られることが多い一方、エロ漫画というジャンルは「エロティシズムを含む表現」であるが故に「三流の表現である/汚い/語るべきものではない/語るに値しない/触れたくない/評価したくない/許せない/ヒドイ/子供に見せられない/恥ずかしい/人間性を冒涜している」(p.5)という「エロの壁」(p.4)によって省みられなかったとし、本書を「不可視の王国(エロマンガというジャンル:管理人注)を眺め、越境し、探索するための手引書」であると規定する。
個人的にはこの大見得にやられてしまった。

構成は大きく分けて2部、歴史と表現についてである。
歴史については現代エロ漫画(美少女系エロ漫画)を中心におき、「BというスタイルはAから影響を受けた」といった単眼的な視点で語ることをせず、リチャード・ドーキンスのいうミーム(meme:文化遺伝子)という発想で説明している。一言で説明は難しいが、Aというジャンルが成立したのは様々な文化の影響を受けた結果であって、Aに影響を与えた文化も同じように様々な文化の影響を受けた結果成立したものだ、ということである(ちなみに筆者は「エロ漫画につながるミーム」の原初を「アルタミラの洞窟」であるとしている)。手塚治虫が、リアルな描写を追求した「劇画」のミームが、「お笑い」と「お色気」と当時の少年達にとってトラウマとなる漫画を描いた永井豪が、「月に80誌以上」創刊され「エロがあればなにをやってもいい」という書き手にとってフリーダム且つ弱肉強食の時代だった三流劇画ブームが、「花の24年組」によって異性にも読まれることが普通となった少女漫画が・・・といった具合に様々なジャンルが生まれ、廃ることはあっても消えることなく続いていく。そんな中、82年に創刊された『レモン・ピープル』によって、「ロリコン漫画ブーム」が始まり、三流劇画から漫画・マンガ調のロリコン漫画へのパラダイムシフトが起こる。編集者・大塚英司と漫画家・森山塔(もしくは塔山森。現在は山本直樹)という二人の「キー・パーソン」により、エロ漫画のエリアは大きく拡大していくのだが・・・(ちなみにここで書く「ロリコン」について、筆者は「ペドファイル」という意味ではなく「フラジャリティ(壊れやすいもの、繊細なもの、小さきもの、幼いもの、か弱きもの、不完全なるもの、断片的なもの、愛らしいもの、歪んだもの、病んだもの、儚きもの・・・)を愛好するマイナー文化」であるとしている。)
表現については、様々な「欲望のカタチ」について、「何が書かれているか」ではなく「どう読まれているか」という視点によって書かれたものだ。卑近な例を出せば、オタクコンテンツを愛好する者達に対して、「現実でモテない代替品としてそういったコンテンツに手を出すのだ」といった粗暴な言葉が投げつけられる。確かにそういった人間もいるにはいるだろうが、果たして彼(もしくは彼女)がオタクコンテンツに手を出すのはそれだけが理由なのか?前述の「フラジャリティ」を愛するが故という人間もいるのではないか?それと同じように、ただ性欲を満たすためだけにエロ漫画は読まれているのか?筆者の答えは否であり、「性欲のカタチ」は多様化していると主張している。

長々と説明してきたが、この本を楽しめるかどうかは人を選ぶ。タイトルからして「エロマンガ」であるから、日本の人口の約半分は手に取らないだろうと推測できるし、残りの半分にもエロ漫画に語る価値を見出していない方は多いだろう。エロ漫画に愛情を持った者でも、論評本を苦手としているのであれば最後まで読み進めるのは辛いと思う。それでも私がこの本を薦めたいのは、筆者である永山薫のエロマンガに対する情熱が垣間見えるからだ。

2006年11月初版とあるから旬を逸してはいるが、いい本はいつ読んでもいい本だと思うので、「不可視の王国」に興味を持った方は是非読んで頂きたい。

【追記】「で、お前はどんなの好きなの?」というご質問に対する回答は、どこぞのフットボールの社長風に「会ったらお話します、でもブログに書かないでね」としておきます。まあ誰も興味ないとは思いますがね。

2006年2月22日

4年前の記憶 -沢木耕太郎『杯(カップ) WORLD CUP』を読んで-

ワールドカップイヤーだからか、それともたまたまだったのか。私には月に1度、お互いに色んな本を貸し借りしている友人がいるのだが、彼が今月持ってきたのは沢木耕太郎だった。沢木が雑誌「アエラ」で連載していた、2002年日韓ワールドカップの観戦記を書籍化したものだ。沢木耕太郎とサッカー、という組み合わせに違和感を覚えた私は友人に面白いのか確認したら、とても面白いと絶賛していたので借りることにした。読後、4年前に私自身がウェブサイトに書いた文章などを読み返してみて、私は自分で思っていた以上に祭りの熱気に当てられていたんだな、と人事のように感じてしまった。というのも、この本を読むまで忘れていたことが多すぎるからだ。

私が前回のW杯について、記憶していることがほとんどないことは自覚していた。先日行われたアメリカとの親善試合でアナウンサーが「前回のワールドカップでベスト8」と言った時、「ベスト8?本当に?」というリアクションを取ったこと、別の場所でアジア枠での出場国を挙げていった際に中国という存在をすっかり忘れていたこと、日本代表のフォワードとして登録された選手が誰だったのか正しく挙げる自信が全く無いこと、また誰が得点したのかについてロシア戦の稲本以外正確に覚えていないこと等……。もはや記憶が曖昧になったでは済まされないくらい、私は何も覚えていないのだ。この作品の冒頭は最終メンバー23名が選出されるシーンから始まるのだが、その場面を読んで23人の中に市川大祐が入っていたことをすっかり忘れていた。そして何より驚いたのは「11」を背負っていたのが鈴木隆行だったことだ。鈴木がらみでは、初戦のベルギー戦で先制されるも同点にするゴールを決めたのが彼だったことも知らなかった(ベルギー戦に関してはリアルタイムで観戦できなかったことがエクスキューズになるかもしれないが・・・。)4年前と現在で扱われ方がこうも違うものなのか。

ここまで書いてきてふと気付いた。4年前の私は今の私と同じくらいサッカーに関心を持っていたのか、と。そういえば私がサッカーに関して情熱を傾けるようになったのは2004年からで、それ以前スポーツに関して一番熱く観戦していたのはプロ野球だった。サッカー観戦はテレビで代表戦をチェックするくらいでJリーグには全く関心がなかった。自分のサイトは持っていたけれど、スポーツに関してまともな文章を書く場所ではなかった。要するに2002年時点の私は典型的な「にわかサッカーファン」、ネットジャーゴンで表現すれば「代表厨」だったと言えるだろう。

あと数ヶ月でワールドカップが始まる。4年前と比べてサッカーに対する興味、関心、情熱は高まっている。もし2010年時点で2006年を振り返ってみた時に今回と同じように「何も覚えていない」などという状態が繰り返されるようなら、進歩はない。もっとも、4年前のようにワールドカップがゆっくり見られる環境なのかどうかが不透明なので、1試合もまともに観戦できないという事態も考えられる。時間の許す限り、私が見た、私なりのワールドカップを書き連ねていこうと思う。

2006年1月 4日

森達也『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)

あの岩波がレスラー本である。しかも著者が森達也だ。これほど奇妙なカップリングはないだろう。「プロレスファンを自認する俺がこの本を読まずして誰が読むんだ!」という義務感みたいなものに駆られ、2006年の読書はこの本からスタートしようと思って大晦日に購入。今年の展望を考える上で、このチョイスはあながち間違っていなかったかなと思っている。

「膝当てのついた独特のタイツを穿き、三白眼の目でニヤニヤと笑いながら、リング上で観客の罵声を浴びている」。どこで見たのか覚えていないけれど、いつまで経っても忘れることのできないとあるレスラーの「映像」。そのレスラーの本名はジョージ・カズオ・オカムラ。リングネームはグレート東郷。リングの上でも下でも悪い証言しか得られなかったというグレート東郷の実像を求めて、彼の探索が始まる。

私が面白いなと感じたのは、ドキュメンタリー作家としての心情と、プロレスファンとしての心情が渾然一体となって表現されている点だ。例えば「プロレスなんてお前の嫌いな善悪二元論の世界じゃないか」と突っ込まれた作者は、ヒールだったレスラーが実は人格者で(フレディ・ブラッシーは引退後慈善活動に参加している)、ベビーだったミル・マスカラスは実はとんでもないエゴイストだった、なんて噂を引っ張り出してきて「単純に善悪で割り切れる世界ではない」といって反論している。また、「演技であると同時に本気である」プロレスを「明らかに矛盾じゃないか」といって一笑に付す人間には「プロレスの魅力は永遠にわからない」と斬って捨てている。これらの物言いは子供の頃プロレスに夢中になり、知恵をつけていくに従ってプロレスの裏側が見えるようになっても尚プロレスに魅せられる人間が行う理論武装の典型と言ってもいいだろう。同じ穴のムジナである私にとってこのような発言は、何だか鏡の向こうにいる自分を見ている感覚になってしまう。

無論、この本はそれだけでは終わらない。彼がグレート東郷を通して語りたいテーマは「プロレスとナショナリズム」だ。何故その2つか繋がるのか、という疑問は実際に読んでもらうとして、私が感じたことを少し書く。プロレスが八百長であることを以って見もせずに無価値なものだと切り捨てる人間と、政治家やメディア等による中国や韓国、北朝鮮に関するセンセーショナルな報道をろくに調べもせず安易に迎合している人間は同一のものとして著者は捉えているのではないだろうか。勿論著者はそんなこと一文も書いちゃいないのだが、「プロレスの面白さは、虚と実が入り混じる点である」ということを何回も主張していることに意図がないはずがない。その意図とは「世の中は単純で、分かりやすいものではない」ということだ。何故そこまで断言できるのか、私も似たような事を考えたことがあるからだ。

政治的主張に関しては私と食い違う部分が多々あるけれど、プロレスを通してでも様々なことを考えるきっかけはいくらでも転がっている、ということを示してくれた点は大いに評価したい。

2005年12月26日

町山智浩「ブレードランナーの未来世紀」

今月の「サッカー批評」は「スタジアムに集う人々」という特集を組んでいる。「サポーター・ファンとは一体何なのか」ということをに焦点を当てたものだが、その中で小郷永顕というライターが「日本のサッカー場が怖くなった」と書いていた。確かにサポーター同士の暴力が問題になることはあるけれど、イタリアや南米に比べればまだマシではないか、と思ったのだが彼はこう続ける。

サッカー場に通う、ということは、タイヘンなことなのだ。 チケットを買う。サッカー場に着くまでの交通費を支払う。サッカー場内に入れば、山頂価格の飲食物を買う。お気に入りの選手のレプリカユニフォームを買う。スカーフを買う。心を揺さぶられる。くたくたになった体を引きずって、来た道を帰る。肉体も経済も削られる作業なのだ。だから、熱心にサッカー場に通っているファンは、行動力を備えている。感心することが山のようにある。

私のスポーツ観戦歴はかなり浅いけれど、スポーツにさほど興味のない友人達からすれば私のスポーツ熱は少々度を越えたものに映るようだ。しかしながら、偏執する対象というのは誰しも持っているものだろう。私はサークルを引退してからドラムに触れる機会がほとんどなくなったけれど、引退した後や社会人になっても楽器を練習を続けてバンドに参加したり楽器を練習している人などを見ていると、「よく継続できるものだな」と感心してしまう。語弊を恐れず言えば、自分があまり関心のない分野に熱を上げている他人の姿からは、ある種の狂気のようなものを感じてしまうのだ。私がゴール裏で声を出し飛び跳ねる姿なんて、気心を知れた友人ですらあまり見せたくない。

サッカー好きに小関順二という人間を説明する際「野球界の後藤健生みたいな人」という言い方をすればイメージが湧くらしいのだが、それに倣えば町山智浩は「映画界の後藤健生」と言っても過言ではないだろう。映画評論家で、町山智浩ほどプロとしての意識の高さと、映画好きとしての狂気を同時に見せてくれる人間を私は他に知らない。既刊である「映画の「見方」が分かる本」では「アメリカン・ニュー・シネマ」の代表的な作品を取り上げて、その1つ1つの映画が出来る過程や原作、製作者のインタビュー等を引用して、作品に込められたメッセージとは何だったのかを解き明かした。今作のテーマとなるのは80年代のハリウッド。町山曰く、映画の80年代はニュー・シネマ時代を経て「見世物」から制作者のビジョンを映す「作品」となった映画が「見世物」へと逆戻りしてしまった時代だったが、それでも自分のビジョンを表現する為に格闘した監督がいたのだという。
「グレムリン」の監督だったジョー・ダンテがハリウッドで反逆児扱いされているのは何故か?
ジェームス・キャメロン作品に共通するシンボルとは何か?
デイビッド・リンチ「ブルー・ベルベット」に込められた意図とは何か?
「ロボコップ」がああいう動きになったのには理由は?
「ブレードランナー」の冒頭、何が「2つで十分」なのか?(帯の引用)

そこまで映画に興味のない人からすれば映画に関するトリビアがぎっしり詰まった一冊と言えるかもしれないが、映画に対して多少なりとも思い入れが深いことを自覚している人間がこれを読むと、「俺の映画に対する考え方はまだまだ甘い」と感じることしきりだろう。プロである以前に町山は「映画ファン」というカテゴリーでトップクラスの狂気も持ち合わせているのだから。

2005年11月21日

伊坂幸太郎「魔王」

もしこの作品を読んで「伊坂はサヨだ」なんて感想しか持たない人間がいるとするなら、その人は今後一切の読書を辞めたほうがいいと思う。そういう輩は「本を読むこと」のセンスに著しく欠けていると思う。

さて所感だが、伊坂作品の魅力の一つに「読後の爽快感」を挙げることができると思う。何となく「今日も一日頑張るか」といった気持ちになる、とでも言えばいいのか。それを感じる事ができた作品として私は「陽気なギャングが世界を回す」「ラッシュライフ」「死神の精度」などを推したいのだが、それらに比べると読後の爽快感を味わうには適さない作品だと言えるだろう。だからと言って面白くないかと言われればそんなことはない。爽快感がない代わりに「個人の力で『流れに逆らう』ためにはどういう方法があるのだろうか」なんてことを考えていると思う。それがおそらくこの本の狙いだ。「魔王」ではしきりに「考えろ考えろ」という台詞が出てくるのだが、その言葉はこの本を読んでいる私達に向けられて発せられたものだと考えた方がいいだろう。

偉大なるブルース・リーは「Don't think, feeeeeeeeeeel!(考えるな、感じるんだ!)」という名言を残したけれど、それは考える事を放棄しろという意味ではない。少なくともこのご時世においては「感じる」ことよりも「考える」ことに重きをおいた方がいいと思うし、大切にしたほうがいいと私は思う。

2005年11月 8日

本田透「萌える男」

「電波男」の二番煎じ、焼き増しかと思いきやさにあらず。本書は「萌え」に関するありとあらゆるディズに対する、本田透のアンサーである。

本田が「恋愛資本主義」を打破すべき対象であるとしているのは「電波男」でも本著書でも変わらない。しかしながら、「電波男」がオタクという「内輪」に向けられた本だとするのなら、今作は「メディアで萌えって言われているけど、あれってどういうことなんだろう・・・」という疑問を持つ普通の人、またはオタク界隈の情報を一切持っていない知的好奇心旺盛な人に向けられた本だ。よって、学術的な引用は前作に比べると格段に増えているし、前作と同じ事を主張していても、受ける印象は大分変わる。それを示すために本田が言う「萌え=宗教」という視点に関する部分を少し引用してみよう。今作では、前作では一切見られなかった「動物化」という単語が今作では登場する。その意図は勿論、「萌え=動物化した人間」という論調に対する反論だ。その箇所も併せてご覧下さい。

ピグマリオンは理想の女性を彫刻として作り上げたが、実はその彫刻像の向こうには、ピグマリオンが理想とする美の女神アフロディーテというイデアを幻視していたわけである。つまり、萌える男がたとえば「メイド服」に萌えるとしても、彼はそのメイド服そのものに萌えているわけではない。メイド服という記号の向こうに、何がしかの理想=意味を見出して萌えているわけなのだ。一九九〇年代から二十一世紀初頭にかけて、萌え文化は構造論的に語られてきた。そのため萌えの本質――目的論・機能論は顧みられなかった。その結果として、「萌える男はパブロフの犬のような機械的な存在で、気持ちが悪い」というイメージが形成されたこと感は否めない。
三次元世界に掘り出してきた彫刻像の向こうに、二次元世界=空想世界のアフロディーテを幻視する。これこそが萌えるという精神活動の本質なのであって、フィギュアは萌えの入り口、あるいは萌える活動のための燃料なのだ。フィギュアという「姿かたち」の向こうには、キャラクターの性格があり、生い立ちなどの設定があり、壮大なストーリーがある。
一神教的恋愛の原型となっているキリスト教に例えれば、フィギュアは十字架像に相当する。その十字架像の向こうの二次元の世界には、膨大なイエスやマリアのキャラクターが構築されており、聖書というストーリーも書き下ろされているわけだ。
(中略)
つまり萌えは宗教(神)が死に、神に代わる「恋愛」も死んだ現代の日本において、必然的に生まれてきた新たな信仰活動といえるのだ。萌える男は動物化などしていない。むしろ動物化したのは、恋愛資本主義システム下で恋愛とセックスを切り離して肉体的な快楽を刹那的に貪り続ける「萌えない男」たちのほうなのだ。
(「萌える男」p.86~87)

いつものように電波理論の図解が載っていたりしているけれど、一時が万事こんな文体なのだ。また、前作で語られていなかった箇所で言えば、「萌えが普及(というか認知)された社会の在り方」とか、本田自身が「モテの立場になった」と言及されている事に対しての反応などがある。 全体を通しての所感は、普段「プギャー」とか「オリはよう」とかサイトで書いている人間が書いたとはにわかには信じがたいし、同時並行でライトノベルを書いていたというのだから、その超人っぷりには主張うんぬんを抜きにして脱帽するしかない。

前作では言いそびれてしまった感があるので、今回はちゃんと言っておきたい。
萌えに偏見のある方こそ是非手にとって読むべき本であると。
しろはたファンは一人称を見て笑うべし。

2005年10月12日

祥伝社「I LOVE YOU」(2)

先日、残りの4人も読み終わったので、個人的に気に入った順で軽く寸評をしてみたいと思う。

中村航「突き抜けろ」、色んなところで「これは恋愛小説じゃなくて青春小説だ」と書かれているけど、男同士でくだらない時間を過ごすことで友情なのか馴れ合いなのかよく分からないものを築いていく物語が大好きなので、個人的には可。まぁ「LOVE」という概念が男女の関係(しかも肉体関係込み)に限定された状況における感情ではなく、こういう男同士の絆みたいなものも「LOVE」の概念に当てはまるのだ、と作者は判断してこういう小説になったのではなかろうか、と妄想で推測。中村航という作家については全く知らなかったので、著作を読んでみようかと思っている。10点中8点。

本多孝好「Sidewalk Talk」、今まさに離婚しようとしているカップルの最後の晩餐。付き合うきっかけとなった出来事とか、結婚するきっかけとなった出来事とか、2人の間にズレを感じるようになった瞬間とか、そういった思い出がこれでもかこれでもか、と出てくる。私は離婚はおろかカップルにすらなれない人間なのでいまいちピンと来なかったが、何らかの形で恋人と別れた経験のある方がこれを読めば身につまされる描写になるのかな、と思う。筆力は高いと思われるので、「Missing」を購入する予定。10点中6点~7点。

石田衣良「魔法のボタン」、読後真っ先に思い浮かんだ感想は「何かギャルゲーに出てきそうなシチュエーションだな」だった。よって3点。

市川拓司「卒業写真」、はいはいイケメンイケメン。1点未満。

ちなみに、伊坂と中田に関しては満点。この2人は、恋愛小説なのに「セックス」と「キス」という最強の「記号」を主人公に一切持たせず、それでいて感動させるものを書き上げてしまったところが素晴らしい。1,600円するが、6人の作家の中で3人以上興味のある作家がいるならば、お買い得である。伊坂ファンと乙一っぽい描写が好きな人は即購入するべし。まぁ発売は7月だったので、そういう人はとっくに買っているとは思うのだが…。

2005年10月 8日

祥伝社「I LOVE YOU」

伊坂幸太郎と中田永一目当てで購入。他の作家は今のところ未読。そのうち読むつもり。

中田永一「百瀬、こっちを向いて」、巷では「中田永一=乙一」なんて噂がある。確かに「この描写は乙一っぽいなぁ…」と感じるところは随所に見受けられる。例えばこの辺り。

「人間レベル。それは、外見と精神の良し悪しを総合したものである。例えば宮崎先輩や神林先輩が90前後のレベルだとすると、僕の場合はレベル2である。外見は凡庸で性格も暗い。人間レベル、という価値観を頭の中に作ってしまうほど暗い。だからレベル2。ピラミッドの最下層グループに位置している。なぜレベル1ではないかというと、自分が最下層グループに位置していることを自覚しているだけマシだからだ」

本当に引用したい箇所はもう1つあるのだけれど(p.187からp.188にかけた部分)、まあそれは実際に読んでいただくとして、この行を読むだけでも非常に乙一っぽさを感じてしまう。ただ、私としては違う作家だったほうが望ましい。お気に入りの作家が一人増えるから。そして、この行だけ読んで「何て暗い小説なんだ」と判断してしまうのは早計。こういうキャラクターがそのままで終わらないのも乙一節…いやいや、中田節。

そして、現在最も直木賞に近い作家(と豊崎由美が猛烈プッシュしている)、伊坂幸太郎「透明ポーラーベア」。伊坂節全開。言うべきことは特にありません。